国際通りの風景

 

 国際通りという名が、昔、アーニーパイル国際劇場という映画館から由来していることを知っている人は少ない、今のテンブス館あたり。その隣にあった平和劇場は平和通りの名の由来。

 戦後、焼け野原から一直線、1マイルの道を作ったところから那覇の復興は始まった。国際通りを幹にして枝に当たる道もできた、それぞれに名前ができた。主なものでは、グランドオリオンという映画館の通りはその名の通り、グランドオリオン通り、沖映劇場のあった通りは沖映通り、一銀通りは? 今の海邦銀行がその昔は第一相互銀行であったところから来ている。一銀(・・?)と書いた看板は今でもあちこち目につく、浮島通りには浮島ホテルがあった。

 今や、それぞれの建物は全てなくなった。国際通りの風景も大きく変わっていった。そうした状況は、元NHKの大浜 聰さんの書かれた「沖縄・国際通り物語」に詳しく書かれている。国際通りのことをこんなにも克明に書かれた貴重な資料は他に見当たらない。かろうじて書かれている時代に居合わせたので、読んでていてワクワクした。

 

 さて、その国際通りも時を経て大きな変貌を遂げる、かつての商店街ではなくなった。近くには本屋がいくつもあり、食堂があり、電気屋があり、床屋、美容室、駄菓子屋、工具店、帽子屋、何故か下駄だけの専門店もあった。一通りの生活必需品が揃っていたのが国際通りだった。

 サイオン橋から安里に向かう方面は食料の卸屋が軒を連ねた。当時は各店が貿易を行い、食料も輸入品が多かった。ポークをはじめとする缶詰王国になった発祥の地である。

 一方の松尾方面は、お土産品と時計屋、宝石屋が目立った。戦後から1972年の日本復帰を迎えるまでは、全て免税品という関税がかからなくて輸入できるので高級品も安く手にはいる。全国の金持ちが集まった。高級品爆買いの様相は凄まじかった、団体で押し寄せ、なりふり構わずワニ皮の高級バッグやローレックス、ロンジン、オメガやらの高級時計、パーカー、モンブラン、シェーフアーらの万年筆、ダイヤモンド等の宝石類、高級化粧品、そして酒は、ジョニーウオーカー、シーバス、オールドパーらのスコッチ類に、ナポレオン、ヘネシーらのブランデーなどを買い占めていった。あの狭い国際通りの各店の前に観光バスを連ねて駐車、全国の金持ちが団体で押し寄せ目の色を変えて買い物した。その姿は現在、中国人が行なっている。

 

 今、地元の人はたまにしか国際通りを歩かないと聞く、なぜか?外国人、特に中国、韓国人、そして全国からくる修学旅行生が通りを席巻していて、道を覆うぐらいの人がいっぱいで実に歩きにくい通りになった、国際通りにある建物は、大手の薬屋チエーン、大手の居酒屋チェーン、大手の土産屋チエーン、大手の泡盛屋チエーン、なんとかという紅芋のお菓子屋も、1マイルを端から端まで歩くと、そういう似たような店が立ち並び、ワクワクさせる要素が全く失われた街になった。これも地元の人が歩かない一因だろう。

 それに加えて、大きなホテルも通り沿いに出来だした。ますます歩きにくくなる通りになる。かつての国際通りの姿がどんどん遠のく

 昔通った、純喫茶エデンや、月光、1918年(通称センハチ)でゆっくり音楽聴きながらコーヒーを静かに飲めるような時代がまた来るのであろうか、それともますます都会化がすすむのであろうか

 

 これを書いたのが2019年の1月である。まだこの時は平和な様相の国際通りだが、あれから1年3ヶ月たった現在2020年4月のとある日曜日は、まるでゴーストタウンだ