牧志界隈を歩く その八

 もう何千回歩いたかもしれぬ平和通りを今日も歩く、前回からの続きを歩いて見る。両側にびっしりと店舗があるが、実は皆独立している建物だ、しかし隙間がない。中には繋げたものもある。右側にある唯一のすきまが,Tシャツ屋の間から抜ける”近道通り”とある小さな道。おじさんが経営の小さなコーヒーシャープがある。(コーヒーシャープとはショップのこと、外人の発音を聞いてウチナーンチュはコーヒーシャープにした。今でも街なかでこの看板に出くわすことがある。)そこを抜けるとむつみ橋通りに出る。左に中国物産館がある、中国との縁の深さを感じる店だ、さらに水上店舗をまたぐと市場本通に出る。

 

 今日はまた平和通りに戻る。”ココカラフアイン”という薬屋がある。ここは昔”なみさと”というメイクマンのミニ版のような店だった。なんでも揃っていて、この界隈の人にとっては便利この上ない店だった。当時この辺は「なみさと王国」といってもいいぐらいで、”パーラーなみさと”で25セントもの金を出して食べた「スパッゲッテイミートソース」は僕にとって、最高のフランス料理(?)だった。今スターバックスが入っているビルは”なみさとビル”、向かいには”バッグのなみさと”があった。

 

 旧なみさとを過ぎると、御菓子御殿の手前に路地がある。そこを入ると希望ヶ丘公園に出る。希望が丘に抜ける路地はもう一つあって、花笠食堂からも抜けられる。ここには井戸がある。その周りは林になっていて、そこから階段で希望が丘に入る。わずかばかりの平地の真ん中にある井戸を中心に集落があったのがわかる。この辺に住むとまだいい、我が家は崖の上だった。

 公園の中には琉球石灰岩の一部が顔を出している。その岩の上には様々な木々が寄り添ってたくましく育ち、周辺の様相を見守っている感じがする。

 

 先に進もう、ここは正式に平和通り商店街という。その先で商店街は二手に分かれる。この形状に注目しよう。大きな川が三角州にぶち当たるような形だ、右から入ってみよう、昔から仕立て屋、生地の店、ボタン屋、靴専門らが立ち並ぶ、その先に複雑な”えびす通り”に出て、さらにサンライズ商店街に出る。そこを左手に行くと、またいろんな店が連なり、ホテル金城も最近できた。その終着点が丸いドーム型のアーケード、平和通りとサンライズ通りのアーケードの交差点といったところか、この地点が商店街合同でなされるイベント広場だった。アクターズスクール時代の安室奈美恵もここで踊っていたのを見たことがある。さらに回って行くと右手には桜坂へつながるところでこの三角州は終わる。この三角州の真ん中らへんがどうなっているのか気になるのは僕だけだろうか

 

 こうして見てくると、いたるところに、見せたくないところをあえて見えないように巧妙に作られたような施設が多いような気がする。かつては排水路のような、ガーブ川を暗渠にするとか、那覇の恥部であったろうと思われる希望が丘周辺を商店街で覆い隠すとか

 戦後、理想の都市計画をとの思いから弾かれた、街の様相が見られる牧志は、やはり面白い

これからも続きます。

 

牧志界隈を歩く その七

 牧志界隈を歩くとは、昭和を歩くことでもある。ゆっくり歩き回ると昭和が見える。例えば旧三越を背に前を見ると、いかにも沖縄らしい色づかいのアーチ看板、”平和通り商店街”の文字が、どうだ!という感じで目に飛び込んで来る。両側には平和の象徴かハトの絵もある。

 

 その看板の左手にある建物を注目してほしい、下はビルを覆い隠し焼肉屋になっている。30度上を見ると、らせん階段が見える。かなり古いビルで、昔は”らせんビル”とかいわれて、超モダンな建物だった。今このらせん階段の登り口は塞がれている。

 

 平和通りを入ってすぐ右手には、創業64年の”純喫茶「門」”がある。去年初めて入った時の記述には「店内は昔のまま、シンプル、まさしく昭和の純喫茶、モカとミックスサンドを注文、ミルを引く音、卵を焼く音が聞こえ、ビバルデイの「四季」が流れてきた。大ぶりのコーヒーカップに、サンドイッチ、本、クラシック、全てが揃った。」とある。

 まさしく昭和の時空を味わえるところである。

 

 次に、その「門」の斜め向かいにある、少し登りの赤レンガの道を注目してほしい、ここは僕が那覇の中で一番好きな道である。勝手に”スペイン通り”と呼んでいる。ちょっとアメ横っぽい雰囲気が漂う・・・この地こそ沖縄の戦後史の一端が見えると言ってもおかしくない場所である。軒先を利用して小さい店が整然と並んでいた。扱うものは全て輸入品。化粧品(レブロンやマックスなんとかやら)を主に、舶来のたばこ(洋モクといった、ウインストン、ケント、ダンヒルなど)、そして菓子類(ハーシーのチョコレート、リグレイのチューインガムなど)だった。そしてもう一つ沖縄ならではの光景が見られた。それは、普通のおばさんが路上で行なっていたドルと円の闇交換。復帰前のドル時代、銀行よりいいレートで交換でき、利用した人は多くいた。

我が家もそうだった。未だにその雰囲気を残しているのはマコトにうれしい、ここはもう時が止まっている。

 

 道の先には”テンブス那覇”という建物につながる。国際通り、平和通りの名前の由来はいくつかの雑誌やテレビその他で幾度となく語られているので十分承知だと思う。どちらもこの小さな島にとっては似つかない、でかい名称である。それゆえにその由来は忘れかけられている。戦後の沖縄県民に娯楽をと多くの人の労苦の上にできた”アーニーパイル国際劇場”とその後できた”平和劇場”。少なからずともこの二つの施設の影響で生まれた通りの名称であるはずだ

 二つの劇場はその後、国際ショッピングセンターとなり、土産品、本屋、飲食店、ボーリング場等、那覇の名所に生まれ変わった。携帯のないあの頃の待ち合わせ場所は、この国際ショッピングセンターか三越前だった。東京でいえば、渋谷のハチ公前といったところか

 それがいとも簡単に、この由緒ある”国際”の名称が消されることになる。”テンブス那覇”のテンブスとは沖縄の方言でヘソを意味する。ヘソは体の中心、それをもじって那覇の中心という意味でそうしたのか

 この建物を建設中、那覇市役所のある幹部らが酒を飲んでる席に出くわしたことがあった。一人の幹部がいう。「あそこの名称決めたよ、愛称が”テンブス”にビルの名前は”ニフエーデービル”に」 もう一人の幹部、「えー!初めて聞いたなー、いつ決めた?」

 冗談のような話だが、ワイワイ飲みながら誰かが言った、「よし!”テンブス”にしよう!」「異議なし、異議なし!」ありそうな話ではないか

 

 

牧志界隈を歩く その六

 牧志は曲がりくねった小道が多い。ランドマークもないので場所の説明に困ることが多い

よって、これから勝手に通り名やらをつけていくことにする。例えばいま、那覇セントラルホテルの前にいる。この通りをセントラル通りとする。この前の坂を登り国際通りを越えてグランドオリオン通りを行くと壺屋方面に出る。逆だと安里川を越えて58号線に出る。58号線は復帰前は1号線といって軍用道路だった。緊急時には滑走路にもなるようにできている。ベトナム戦争の時は堂々と戦車や装甲車が走っていた。こんな笑い話がある。沖縄のオバーがタクシーに乗り「1号線に出て、北へ向かって、」と運転手にいうと、「ああー58号線ね、」と返す、「へ~なまの時代や道路も年取るんだね~」という沖縄オバーの代表的ネタ。

 

 話を戻して、那覇センの向かいに小さな小道がある。そのすぐ左手に下がバーのマンシヨンがある。そこは1980年に上映された「男はつらいよ ハイビスカスの花」で舞台になった、”ホテル入船”の後だ、ホテルとはいっていたが、木造の小さな味のある旅館だった。ここに寅さんが泊まった。照りつける太陽をさえぎようと寅さんが細い電柱に隠れるシーンには笑った。今やこういう話を知っている人は少なくなった。いつかここに「男はつらいよ、寅さんゆかりの地」という碑を立てようと勝手に企んでいる。

 

 そこから少し右手に行くと、ライオンズマンション牧志第二のすぐ隣に何やら怪しい古い一軒家がある。今にもくづれそうである。明らかに傾いている。そっと測ってみた、軒の高さが右側が12.4センチ下がっていた。上から見ると沖縄伝統の赤瓦だが、形がなんともいえないいびつな形で一階が奥に増築されているようだがそこの形もおかしい。おそらくライオンズマンション第二はこの建物に併せて造られたようだ、マンションの形もいびつだから・・・

 看板が”夢屋”となっている。以前は散髪屋だった。長いこと続いた最初の散髪屋がやめ、また次も散髪屋がここを借りたが、長くは続かなかった。しばらくしてここを一人でコツコツ改造し始めた男が現れた。何をやってもどうせ長続きしないだろうな、と、ここを通る人らは冷ややかにみていた。無論我が家の誰もがも、しかし、期待は見事に裏切られた。

 

 しばし夢屋の話をしよう。店に入る。右手にはカウンター6席、左手に4名がけのテーブルが二つある。細い狭い厨房に立つ大将の名は、「嘉数氏」(かかず)全て一人で取り仕切る。

 一番手前の小さな空間だけで焼き鳥からチャンプルーまでこなす、何を食べてもうまい。生ビールを頼むと奥のサーバーまでいき素早くだす。客を待たせることはしない

 なんでも一人でこなす手際の良さには驚嘆を覚える。この店まだ数年しかならない、しかしこの建物の古さと、その魅力を十二分に引き出した嘉数氏の人柄の良さが相まってもう何十年も通い詰めてるような錯覚に陥る。我が家では皆が集まると「よし!夢屋で夢を語りに行こうか」となって大宴会がこの小さな店で始まる。

 ところで、ここだけの話だがこの店には美女の客が多い。それはそうだ、本当の美女とはこういうところに来るものなんだ。”夢屋”を牧志重要文化財に登録した。

それからの「ひとり旅教育」

 昨年11月思い切ってオーストラリアを旅行した。長女の美華子と三男の潤也がいるところへ

二人のことを書いた「ひとり旅教育」が2013年だからあれから6年経った。あれ以来二人のそれぞれの「ひとり旅」は続いている。美華子がアメリカを2年間経験し、いったん沖縄に帰るも2年も経てばまたまた体がうづいたのか今度はオーストラリアに行った。2年になる。その間もタイ、台湾、ドイツ、スペイン等をまわっている。その後潤也が同じくオーストラリアにいった。

 

 僕が皆に「ひとり旅」をすすめ、それぞれが実行しているが、肝心の僕はいっこうにその実行には至らなかった。なぜか、飛行機が苦手なのである。2時間ほどの国内線でも精神安定剤といってはワイン一本持ち込み、離陸と着陸時には絶対に必要なんだと決め込み飲んでいた。

 5時間以上の飛行はまず無理と思い込んでいた。それが、知人の同じく飛行機嫌いの仲本氏の話で一転した。氏曰く「睡眠誘導剤でオーストラリアへ行けた、楽勝だった。」と

 

 今、あの「ひとり旅・・・」を読んでみると、こう書いてある。「旅は人を大きくさせる。ひとりで旅をするとき全て自分の裁量にかかる。できないものが見えてくる、それをできることに転換しようと思う。その連続で成長していく、人間は結局ひとりなんだと気づく・・・それが大事、責任が生まれ、自己責任で行動する。」なんて、偉そうなことを書いてある。

 書いた以上本人がまずこのことを実証せねばとオーストラリア行きを決断する。5月に飛行機の手配等を終了。後には引けない、その後自分なりに訓練をいくつか、まず英会話、北谷あたりの外人に手当り次第話しかけたり、飛行訓練だと神戸へ一人行き、そこの外人をせめたりと、それなりに頑張った!

 そして主治医には血圧の薬に加え睡眠誘導剤の処方も忘れずにお願いした。

 

 そして、その日が来た。運命の11月が、那覇から成田へ、オーストラリア行きまで5時間ある。余裕と思っていた。ところが、こんなこともあるんだという超不測の事態が・・・

 先にチェックイン済ませようと思い余裕を持ってカウンターに行った。ところが女子職員から思わぬ言葉が、「お二人ともビザがありません、これでは入国できません」だった。二人とも「?」

 

 ビザのことなんて誰にも聞いていない、突然頭が真っ白になる。これから手続きなんて無理に決まっている。考えることは、周りに散々海外行くと自慢げに言いふらしたこと。もしこれで行けなければ、一生ものの恥だ。東京に二週間潜んでいようか、とかマジ考えた。

 しかし、ここは冷静にと腹をくくる。だが職員から手渡された手引書を見てもパニック状態から抜け出せないので目に入らない、が、さらに覚悟を決める。ここで、「ひとり旅・・」で伝えたメッセージ「旅は人を・・・云々」を思い出してなんとか切り抜けた、といえばかっこいいが、実際はとんでもない慌てぶりだった。カウンター前の人混みの中、地べたに座り込み、前にはパスポート、カード、その他の書類を並べ、ひたすらスマホと格闘する。スマホの小さい字がますます見えない、太い指が焦りを加えてポイントにヒットしない、時間はどんどん経過する。なんども何度もエラーとの格闘が続く・・・そして、どれだけの時間がかかったろうか、なんとかすべてクリアーできていた。

 やるだけやった。二人のすべてのミッションは果たした。あとはカウンターでの判断を待つのみ、ダメならダメ、と開き直った。結果、大逆転。余裕で並んだ列は僕ら二人だけだった。

 

 期待した機内での飲み放題はなかったが、オーストラリアのワイン、大好きなシラーズを何本も飲み干した。そしてぐっすり眠った。誘導剤は必要なかった。起きたら午前4時のオーストラリアだった。

 

 

牧志界隈を歩く その五

 今日は昨日と打って変わって快晴、a.m.6時14分家を出る。家から出ると向かいに那覇セントラルホテルがある。自宅の近くに観光ホテルがあるのはリッチな気分にさせる。我が家もリゾートホテルなんだと思えばいい、それでは今日もそんな気分でリゾート地の牧志界隈を

  今日は一押しのスポットを紹介する。那覇セン(那覇セントラルの略)に向かって左を行く。高良獣医(この辺ではこの名称で地域のランドマーク)から左へ行く、最初の角を右に、坂道を登ると、また一段地面を引き上げたような坂にあたる。その左側に石積みがある、自然の石をただ積み上げただけの、野面積みというものだが、これが崩れづに昔からある。いつ頃からあるのかわからないが、この辺の人の話では戦争中の砲弾をうけた跡があるとか、ということは75年前からあることになる。石垣からハブが時々顔を出す、とか聞いていたので昔は近づかなかった。

 以前この地に立派なお屋敷が立つ予定だった。住民は羨望のまなこでその完成を待ち望んだ。が、どういう事情だか日の目を見ることはなかった。現在はマンションが建っている。

 石垣からマンションを過ぎると、今度は急な下り坂が、そこから正面を見ると、過去と現在が交差するなんとも不思議な光景が見える。少し向こうにモノレールが走る。その手前とはるか奥に立派な高層マンションが建っている、それを確認したら手前を見てみよう、緩やかなカーブを描く道に沿って合わせた見事なブロック塀がある。その後ろには赤瓦の家、トタン屋根の家が所狭しと密集している。中には灰屋もある。皆低地にある。安里川が氾濫すると床上浸水間違いなかった。まさに戦後、那覇に住民が戻って来た時の様相がそのまま残る風景だ、多くの住民は住み慣れたこの地を無念にも離れたが、まだ一部だが残っている様子を見るとホッとする。

 左へ向かう、マックスバリューへの道を越えてそのまま行くと”長虹堤”に出る

ちょうこうていと読む、昔中国との交易の際、松山から崇元寺までの交通路として橋と堤防で作った道路だ、歴史的な説明は省く。那覇の人はこの辺を単に”十貫瀬”といった。

”じゅっかんじ”ではなく”じっかんじ”で馴染んでいた。この通りはいつのまにか隠れた飲み屋街になった。那覇では戦後、辻、栄町、桜坂、等がメジャーな繁華街だが、あの当時はこういうゲリラ的な飲食街があっちこっちに出来だした。今や全くその面影はない。子供たちががこの通りにあるコスモ保育園に通っていた時、送り迎えの時によくキャッチされた。朝に夕に関係なく。

  牧志は全体が起伏にとむ街だ、中でもこの二丁目はほとんどがうねった地形になっている。そして道をよく見るとつぎはぎだらけだ、マンホールも付け足しだらけのことがよくわかる配置だ。さらに曲がりくねった道、となれば住むに最悪、と思われるかも

 しかしここに住んで60年、ここがいい、となる。小さい頃この牧志二丁目内だけで3回引越しをした。結婚して2年近くを隣の安里で住んだが、なんだか都落ちしたような気分になった。(安里の方々には失礼!)それほどこの牧志二丁目はいい。目の前がホットスパー(だった)、ちょっと行けば三越(だった)、国際通り、平和通り、ダイエー(だった)がある、さらに赤提灯はいたるところに、そして何よりも静かだ、次は🏮も含めて、ご案内を

 

牧志界隈を歩く その四

 牧志には1~3丁目がある。二丁目の範囲を見てみよう、起点は牧志ウガンと呼ばれているところから、ウガンとは御願と書いたり、拝所のことをうがんじゅと読んだりするところから来ていると思うが、僕にとっては小さい頃ここで毎日野球していたから、ウガンとは球場だと思っていた。ここがこの地域では重要な拝みどころ、”東の御嶽”(あがりのうたきと読む)だと気づいたのはだいぶ後のこと。今では牧志公園とも呼ばれているが、御嶽は立派に建て直されて鎮座している。年一回行われる奉納相撲の会場でも有名で、相撲といっても沖縄相撲といって、韓国のシムルに似た格闘技で全島から選ばれた猛者が集まる。生で見るとかなり迫力がある。子供4人が小学生の頃は全員この大会に参加していた。いつも持って帰るのは賞品のラジカセ、いっとき家中がラジカセだらけになった。 *御嶽(うたき)は琉球独特の神事が行われる場所

 さてそろそろ出発、右手に安里川が流れ、その上の橋がサイオン橋という。これも漢字で書くと”蔡温橋”となる。沖縄では有名な歴史上の人物名。長いアメリカ統治下の影響か沖縄ではなんでもカタカナに変えることが多い、特に選挙の時の名前をカタカナで簡略したものは結構笑える。今度特集してみる、乞うご期待!

 安里川沿いを進むと、左手にマックスバリューがみえ、その向かいの坂を登ると”新都心”という不可解な街に出る。ここが新都心ならわが街は旧都心になるのか、やっかみでは無いが、出来て20年近くになるが未だ居心地がいいとはいえない地域だ、牧志外なのでこれ以上は言及しないでおく

  さてマックスバリューを少し進むと”崇元寺橋”がある。尚家を祀る崇元寺があったが、今はその入り口のアーチ門だけが残っている。この橋らへんに昔ちょっとした物語がある。このあたりを”十貫瀬”と書いてジュッカンジとよむ。十貫はお金、瀬は川の浅瀬のこと、昔離島からの旅人がこの辺で十貫を落とした。数年後に来たらこの浅瀬に同じ十貫が置かれていたというよくある話が伝わっている。

 ここを左に向かう真っ直ぐな道を”長虹堤”というが詳しくは又にして、先急ごう、川沿いをさらに進むとまた橋にあう。”なかよしばし”という可愛い名がついている。

 この橋の手前で安里川は分離する。右手に行けば泊港へ流れ、左にいって久茂地川となる。そこをさらに行けば”美栄橋”にあたる。そこから川はさらに右に分かれ”潮渡川”となって若狭の海岸に流れる。この美栄橋の交差点を左に折れると。沖映通りになる。

 ここで一つの疑問が生まれる。前回書いたガーブ川は水上店舗や道路に覆われたりしながらジュンク堂手前でやっとシャバに出る。が、沖映通りは美栄橋まで続く。ジュンク堂から美栄橋交差点までの道路の下は一体どうなっているんだろう?

 もどって、沖映通りを歩こう。左の糸嶺会館の地下には今や死語になった(デイスコ)”イエロー”があったなあ、さらに進む、信号を右に渡るとパラダイス通りへ(ここは一丁目の時に詳しく)左手すぐに、老舗ホテル”山一”がある。最近リニューアルがやっと完成した。その矢先にコロナが来た。経営者はやりきれないだろうなあ。さらに進んで、国際通りの角”スタバ”を左手に行くと起点の牧志ウガンにもどる。これが牧志二丁目の外周、次回はこの中をのぞいてみる

 

牧志界隈を歩く その三

 国際通りから、水上店舗に沿ってむつみ橋通りを進んでいくと、水上店舗の切れ目にあう、とそこでも急な勾配に当たる。ここにも橋があったことがわかる。それを超えて行くと、ちょっとおしゃれな空間に出会う、いつの頃からか「パラソル通り」といわれだした。誰でも借りていい本棚があったり、おでん屋があったり、小さな珈琲屋があったりする。でもよく見ると計画的に作られた空間ではなさそう、形がいびつだ、左手にある建物は公設市場の別館で一階は化粧品やらの部署に二階は商人塾という文字がある建物、少し離れて衣料部という建物がある。ここは琉装専門や沖縄の行事に欠かせない衣類を置く小さいコマが所狭しと並んでいる。

 この二つの建物が別々に建てられている。この二つの建物の間に平和通りに繋ぐ狭い通り道がある。

 この狭い通り道、今は八軒通りというそうだ、24歩の日本一短い商店街という触れ込みが書かれてある。昔は食堂街だった。公設市場も平和通りも整備される以前、小さな食堂が寄り添うように並んでいた。小さいころ母に連れられ仕入れに市場へきたとき必ず寄ったところだ。いつもたのむのは沖縄そばだけ。価格は普通が10セント、半そばというのが5セント、それを一つづつ注文する。これだけで出て来るまでいつも1時間は待たされた。我慢強さはこの時育った。大きくなって、なぜあれほど遅いのか検証してみた。で、あくまで持論だが、沖縄の食堂で働くおばさんらは組織的に動くことが苦手なのだ、リーダーがいないし、いても言うことを聞かない、ワンがワンが(私が私が)の世界でまとまらない、結果段取りが悪くなる。と考えた。しかし、これは食堂だけではなく、当時はどの業界もそうだったように思う、ウチナーンチュ独特のマイペースでなかなか前に進まない、今はそうではないが、でもあれはあれで人間らしくてよかった。

 1972年の日本復帰からは、日本的なシステムが徐々に沖縄の社会にはびこり、街が急速に変化しだした。どこを歩いても、あれ?ここ前なんだった。あれ?こんな道あった。と首をかしげる日々が多くなった。だからか、八軒通り入り口にある”まきや帽子店”のおばさんとか、桜坂を登る手前にある”比嘉茶舗”のおばー(亡くなった)とか、一日中だべっている”衣料部”のおばさんたちを見てるとホッとする。ここら辺は時が止まっている。

 またパラソル通りに戻る。そのまま行くと道はきれ段差にあう。ここで右と左に分かれる。左側には”台湾茶屋”という店がある。この界隈のおばさんたちのゆくい処(休憩場所)だ、沖永良部出身の川畑氏が脱サラで始め、今や名所になった。アイスコーヒーの氷もコーヒーで作るので味が薄まることがないというので評判になった。

 さて、分かれ道の左側に進んで見ると複雑に絡み合う”えびす通り”に出る。昔ながらの店(靴屋洋服屋、生地の店等)もあるが、ここ最近のブーム”せんべろ”の店も目立つ。商店街と名のつくところはどこも苦戦を強いられる。随分前から大店舗に客は流れている。しかし長年続く専門店はなかなか頭の切り替えができない、それに世代交代もままならない、となるとどうするか。仕方なく、長年頑張った店を断腸のおもいでたたむ。そして、業態を変え貸すことになる。一番手っ取り早いのは飲食店、その中でもブームにのっている”せんべろ”は誰でもできるだろうと思うから、借り手がすぐ見つかる、と考える。その通りだった。すぐ借りては見つかった。しかし、その”せんべろ屋”果たして続くだろうか・・・これが問題

  次は牧志の二丁目界隈を歩いてみよう