牧志界隈を歩く その二

 国際通りと水上店舗と交錯する交差点、そこの角にはスタバがあり、片方には嶺井時計店がある。地元ではその界隈をむつみ橋交差点という、商店側は向かって右が「市場本通り」左が「むつみ橋通り」とある。その真ん中が、水上店舗になる。

 前回書いたように水上店舗の下にはガーブ川が流れている。それがジュンク堂を越えて久茂地川に合流する。この交差点からジュンク堂前までがまたしても川は道で覆い隠されることになる。

 さて、この辺りをよくみてもらうと何ともおかしな地形に出くわす、嶺井時計店の角の信号待ちの立ち位置に妙な勾配があることに気づく、これは水上店舗から外に出たガーブ川の上に道(沖映通り)を作った時かさ上げした名残りだ、だから道のところどころに段差が残っている。例えばジュンク堂手前の日本そばと沖縄そばの店は数段降りて入るようになっている。

 むつみ橋とはガーブ川にかかる橋だった。国際通りをつなげた橋だ

 

 このむつみ橋交差点には一つのドラマがある。ここに沖縄で初めての陸橋ができた。1970年前後のこと、物珍しさもあって地方から多くの人が見学に来た。わざわざ階段の上り下りをしに来たわけだ、ちょっとした牧志の観光地になった。

 その陸橋が1984年ごろ突然消えた。その頃、近辺にモダンなフアッションビルが建つという噂があった。しかしこの陸橋があっては景観上ビルの価値が損なわれる、よってこの陸橋を撤去しなければこのビルの設計はしないとゴネた有名な設計士がいたそうだ。ゴネた人は、安藤忠雄

 世界的に名を広める前に沖縄で一仕事をした。しかし、いくらゴネても国際通りは県道39号線といって、ちゃんとした公道である。そこに建つ陸橋だからこれも公のものとなる。一民間人が要求してもどうにもならない、それでも安藤氏はゴネたそうだ。誘致した国際通り商店街の役員たちは慌てた。しかし、ここは沖縄、テーゲーの邦、どういう忖度が働いたのか、どうにかクリアーして見事沖縄初の陸橋は撤去され、東京と見紛うようなフアッションビル「フエイステイバルビル」が誕生した。

 この話、どこにも載ってないが、当時の国際通り商店街役員から聞いた話なので信憑性は高い。その後このビルは、那覇オーパになりドンキホーテになった。この次もあるのか・・・

 

 この辺にはもう一つ気になる処がある。むつみ橋通り入り口のそばに青いペンキの古い建物がある。記憶が正しければ、そこは「南陽相互銀行」だった。そこには地下があった。これも記憶が正しければ、その地下には「コンパ パブロ」があった。コンパというのは今でいうガールズバー、カウンター越しに女子が接客する形態の飲み屋、当時若者に人気でいたるところにコンパがあった。そこに毎晩通った。同級生の溜まり場になっていた。

 ということを思い出し、現在ステーキハウスになった店のスタッフに尋ねてみた。「ここに地下ありますか?」と、「ハイ、あります。下も店舗です」と、「じゃ、今度予約していきます」といった。二十歳の頃にタイムスリップできることになった。47年前のあの頃に

 

 牧志という地域には秘めたものがいっぱいある。「国際通りは、東京フアッションに色目を使いながらも、どこかで、それに反発しようとする試験管のような冷ややかな理性の通りであり、街である。」と牧港篤三氏は「幻想の街・那覇」で述べた。

 冷ややかな理性をもつ街を探しに今日も歩こうと思う

川柳というもの4

 なかなか収束が見えないコロナ。これでどれだけ、この世のあり方、価値観が変わるだろうか、人間社会の壮大な実験とも云えるのではないだろうか、と考えてみた。静かな連休もやっぱり家で過ごすことになると、やるのはこういう遊びしか・・・

 

1.孫の手で うっとり顔の 孫の顔

孫の手を取られ、悦に入る孫の顔がなんとも気持ちよさそうに

 

2.俳人は きれじいぼじで 悶絶す

俳人には失礼!切字とは俳句で「や、かな、けり」をさす。昔いぼ痔で泣いたツけ。

 

3.ダイエット やっても無駄と わかりつつ

ダイエット、ダイエットと騒いでいる人に限り変化なし、これいかに

 

4.大人とは でっかい子供の 異名なり

ここでの大人は男子をさす、ガキの延長。それでいいのだ

 

5.もう終わり いつまで待てば もう終わり

もう終わりだね、と言いつつなかなか終わらないカップルの話、よくあること

 

6.コロナにて この世の悪が 一掃す

コロナの蔓延で社会システムが大きく変わり、改善することを期待するが

 

7.朝の空 見上げて今日も 暇潰す

朝の爽やかな空を眺めながら、今日は何をすっべ・・・

 

8.仕事なし お金もなしで どう生きる

コロナの痛手を全世界の人々が味わう、さっ、生きる知恵を搾り出そう

 

9.忖度に 従わないと 損するぞ

別に悪い意味ではない忖度が、時代が変わればこうなるのか

 

10.手をかけた 子供はいつか 手がかかる

手がかかる子(青年)になった。小さい頃過剰に面倒みすぎたかなー

牧志界隈を歩く その一

 

 毎朝日課にしている散歩はもっぱら国際通り、午前7時ごろから出て日によってコースを変えている。静かな朝の通りは昼も夕方も今や一日中同じ光景になった。(コロナ)人がいないので建物の形状がはっきりわかる。この際だからといつもの見慣れたこの街を見直してみよう、昔流行った「路上観察学」にならい、「ブラタモリ」にならい、じっくり観察してみようと思いついた。なにせここには60数年住み着いている。わからないところはないだろうとたかをくくって・・・

 ところがところが毎日思わぬな光景に出くわす、これは舐めちゃいかん、と腹をくくった。

まず頭の中を整理して範囲を決めた。ここは牧志(マキシ)という地名、一丁目、二丁目、三丁目とある。その境界線を確かめた。すると不可解なことが二点すぐ見つかった。境界線にある誰もが知る施設「牧志公設市場」が実は隣の松尾という地名だった。だから正確には「松尾公設市場」になる。そして、モノレール牧志駅から見える我が母校「壺屋小学校」の地名は壺屋ではなく牧志であった。よって「牧志小学校」にならなくてはいけないはず、卒業後56年にしてわかった真実だ。

 実はこれがきっかけだった。しかしよくよく那覇の地を見るとこういう不可解なところがあちらこちらにある。開南小学校があっても開南という地名はなかったり、神原小学校、神原中学校があっても神原という地名がないとかだが、那覇の変遷を物語るには格好の場になっている。

 だが観察するには那覇は範囲が広すぎる。そこで思いっきりせばめて”国際通り”を中心にして、牧志界隈を観察することにした。それでも十分面白いところが発見できる。今年は戦後75年にあたる。あの荒れ果てた那覇の街が75年経ってこのように立派になりました。と沖縄を紹介する本や雑誌等には紹介される。

 しかしそれはほんの一部、一歩足を踏み入れいると驚くほど戦前の姿がみえる。それも華やかな”国際通り”のすぐ側に。それほど戦後の那覇の復興が困難を極めたものかがわかる。

 例えばグーグルマップで那覇を上から覗くとあちらこちらに緑が生い茂ったところが見える。一見森のような公園があるんだと思う。緑の少ない那覇でも頑張っているところがあるんだと思ってしまう、そうだといいんだが、実は皆墓地である。古墳群とでもいったらカッコがつく。

 しかしそれらに近づいてもどこに森があるかわからない、どこに墓があるかわからない。そう周りを隙間なくビル、マンションで囲まれている。覆い隠されているのだ、そういう場所を発見するとワクワクする。

 牧志の中心といえば公設市場(今は移転中)。この界隈も摩訶不思議な空間だ、元農連市場(現在農連プラザ)は柱と壁を組み合わせたようなだけ、とても建物とはいえないでっかい積み木のようなような物だった。その空間の合間をくぐり抜ける小さな川があった。(今もあるが)その川がいつのまにか姿を隠す。隠された川の上に長い建物が出現する。上から見ると万里の長城の模型のようだ、これは水上店舗という。川の上にたった店舗だから水上店舗。昔から地元では馴染みのある呼び名だが川を覆い隠して作られたものだ。川の名は「ガーブ川」

 このような不思議な空間「牧志」をこれから歩き、見たものを一つひとつ残していきたい。かつて戦後の那覇の都市計画を示唆した早稲田大学の石川教授がいった言葉「都市は人なり」をもじり、「街は人なり」との思いで・・・

 

忘れられた言葉

 本だったか、新聞だったか、週刊誌だったか、それとも誰かから聞いた言葉だったかを思い出せないが、忘れられない一節の言葉というのがある。記録しとけばよかったと後悔してもはじまらない、最近そういうことがよくある。

 先日ある本を読んでいて、その中の言葉から去年のことを思い出した。それは忘れていた一節に出会ったことだ、その一節も去年ある本を読んでいるときにふと思い出したもので、普通だと流すのだが、この時は駄目元で探してみようと思った。ジュンク堂へ行き岩波文庫の背表紙を手当たり次第眺め続けた。何故か、手がかりは作者が明治の文豪であること、内容は(狭い庭をつぶさに見ると実に奥深い自然が見える、太陽の光、月の光も差し込み、この小さい空間に宇宙を見る。)というような一文だったような。

 

 ひょっとしたら思い出すかもしれないと思ったこの行動、あながち無駄ではなかった。背表紙に「「徳富蘆花」が目に入った。「不如帰」は知っているがと思いつつしばらく眺めた後、他の作品を見ると、「自然と人生」というものがあった。あの一文から想像するとこれっぽい気が・・そこでスタッフに聞いてみた。持って来たものが岩波のワイド版での「自然と人生」だった。間違いないこれだと、中を確認するまでもなくすぐにレジへ向かった。

 

 意気揚々と表紙をめくったが、文体が昔ので読みづらい、読解能力がおぼつかないのでなかなか先へ進まない、内容は自然や当時の社会の様相を写生するように短文のエッセイにまとめたものだが目的のあの一文になかなか辿り着かない。そうして奮闘すること四日目やっとついた。

 その章を見つけた時の書き込みがこれ、「やっと出会えた!」2019.6.28 am3.56

 

 内容はほぼ記憶通りだった。

「家は10坪に過ぎず、庭はただ3坪。」に始まり、「神の月日はここにも照れば、四季も来たりて見舞い、風、雨、雪、霰かわるがわる到て興浅からず。」とか「蝶児来たりて舞い、蝉来たりて鳴き、小鳥来たりて遊び、秋蛩また吟ず。」とか、そして最後に「静かに観ずれば、宇宙の富はほとんど三坪の庭に溢るるを覚ゆるなり」としめる。(これは現代語訳)

 

 おそらく20代の多感(?)な時に読んだ本だろうが、それが40数年たって思い出されることに少し不思議な感覚をおぼえる。あの時代は1970年代、それまでの高度経済成長時代の清算が始まった時で全国的に公害問題が毎日の話題だった。そういう時代に遭遇した20代が社会の矛盾を目の当たりにした時に出会った本なんだろう、科学技術がこれからどう発展していくんだろうという興味より、そこにある自然に感じるものがあるかが大事なんだと思ったのかどうかは、定かではない、が明治時代に書かれた3坪の庭は、70年代でも、今の2020年代でも変わりなくある。時代がどれだけ科学が進歩しようともその自然が持つ普遍性は変わらない

 

 たまにはこうして昔感じたことを思い返してもいいなあと思った、それも諦めないで

ひょっとしたら人間ってそんなに進歩していないかもしれない、いやもしかしたら退化しているかもしれない、と気づくことがあるかもしれないから

感染列島

 先日「感染列島」という映画をみた。9年前に上映されたものだが今の状況とほとんど同じで驚いた。今世界で起こっていることもまさに映画そのもの、それも展開が早くついていけない、以前はやったアメリカのテレビドラマみたいだ。

 ドラマといえば、我が家でもまるでドラマのような事柄がこの数カ月に起こった。娘の話。

オーストラリアでの2年のワーホリを終え2/20に現地をでた後バリで遊び、ベトナムを縦断して、タイのプーケット花祭りを見て、ドイツに行き、そこを拠点にスペインやらを廻るという、計画を立てていた。最初のバリからの報告は順調そのもの、楽しそうなう様子が伺えた。そこからベトナムホーチミンに入る。その後、まだ賑わいを見せていたホーチミンから中古で買ったバイクで北へ向かう、が徐々に国の様子が変わっていくのが見えてきた。人の姿が見えなくなり、宿泊先には警察と保健所の職員らしきものが巡回に来るし、市と市の境では検問が行われ、と日に日に楽しみが恐怖に変わっていく。

 

 北のハノイに着こうとするところで、現状を把握する。刻々と変わる世界の現実が。それ以降の計画どころか、今は急いでここを脱出しなければならないことに気づく、ネットを見ると日本の日々変わる現状が日本にいる我々よりも危機感が伝わるようだ

 楽しい旅の計画が大脱出計画に変わった。まず飛行機が飛ぶのか、そして日本が受け入れるのかを確認した。ハノイの空港は閉鎖された。急ぎホーチミンに戻らなければいけない、手段は列車しかない、それも16時間かかる。沖縄にいる僕はまず国土交通省に連絡、日本での水際指定されている国、地域を確認した。娘がたどった地域と日を克明に伝えた。その時点ではベトナムは指定に入っていなかった。そうしている間に娘は16時間の列車の難行に耐えホーチミンについた。すぐに日本総領事館に連絡した。そして飛行機の手配も、こちらとの連携もうまく行きホーチミミン空港から成田への全日空機が寸前でおさえられた。

 バリから来た時とのホーチミンとは思えないほど人影が消えていたという

 

 無事ベトナムを出国できた。ところがその日の午前0時に厚労省ベトナムも水際指定に入れた。成田についても強制的に2週間の隔離となる。成田に着くまであの手この手を皆で考えた。が、いい手が思いつかない、そのまに成田についたと一報が来た。意外と元気そう、その後、思いの外の逆転劇が起こった、空港の係に事情を伝えるとあっさりと沖縄行きを認めたというのだ、その夜無事那覇空港に着いた。夜の那覇空港は不気味なほど閑散としていた。

 奇跡の生還といえばかっこいいが、なんともヒヤヒヤの数日を過ごした。沖縄についても油断はできないのでと自主的に隔離生活を2週間近く行った。

 そして、もう一方のオーストラリア組の息子は北海道、大阪を経由して沖縄へ、これも間一髪だった。彼も5日間の隔離を行なった。

 

 この二人現在伊江島にいる。二人の容態が白であることを確認の上、伊江島で農業体験を行っている。その伊江島もついに島外からの出入りを禁止した。

 コロナから追われて、逃げまくって伊江島へたどり着いた。人生何が起こるかわからない

国際通りの風景

 

 国際通りという名が、昔、アーニーパイル国際劇場という映画館から由来していることを知っている人は少ない、今のテンブス館あたり。その隣にあった平和劇場は平和通りの名の由来。

 戦後、焼け野原から一直線、1マイルの道を作ったところから那覇の復興は始まった。国際通りを幹にして枝に当たる道もできた、それぞれに名前ができた。主なものでは、グランドオリオンという映画館の通りはその名の通り、グランドオリオン通り、沖映劇場のあった通りは沖映通り、一銀通りは? 今の海邦銀行がその昔は第一相互銀行であったところから来ている。一銀(・・?)と書いた看板は今でもあちこち目につく、浮島通りには浮島ホテルがあった。

 今や、それぞれの建物は全てなくなった。国際通りの風景も大きく変わっていった。そうした状況は、元NHKの大浜 聰さんの書かれた「沖縄・国際通り物語」に詳しく書かれている。国際通りのことをこんなにも克明に書かれた貴重な資料は他に見当たらない。かろうじて書かれている時代に居合わせたので、読んでていてワクワクした。

 

 さて、その国際通りも時を経て大きな変貌を遂げる、かつての商店街ではなくなった。近くには本屋がいくつもあり、食堂があり、電気屋があり、床屋、美容室、駄菓子屋、工具店、帽子屋、何故か下駄だけの専門店もあった。一通りの生活必需品が揃っていたのが国際通りだった。

 サイオン橋から安里に向かう方面は食料の卸屋が軒を連ねた。当時は各店が貿易を行い、食料も輸入品が多かった。ポークをはじめとする缶詰王国になった発祥の地である。

 一方の松尾方面は、お土産品と時計屋、宝石屋が目立った。戦後から1972年の日本復帰を迎えるまでは、全て免税品という関税がかからなくて輸入できるので高級品も安く手にはいる。全国の金持ちが集まった。高級品爆買いの様相は凄まじかった、団体で押し寄せ、なりふり構わずワニ皮の高級バッグやローレックス、ロンジン、オメガやらの高級時計、パーカー、モンブラン、シェーフアーらの万年筆、ダイヤモンド等の宝石類、高級化粧品、そして酒は、ジョニーウオーカー、シーバス、オールドパーらのスコッチ類に、ナポレオン、ヘネシーらのブランデーなどを買い占めていった。あの狭い国際通りの各店の前に観光バスを連ねて駐車、全国の金持ちが団体で押し寄せ目の色を変えて買い物した。その姿は現在、中国人が行なっている。

 

 今、地元の人はたまにしか国際通りを歩かないと聞く、なぜか?外国人、特に中国、韓国人、そして全国からくる修学旅行生が通りを席巻していて、道を覆うぐらいの人がいっぱいで実に歩きにくい通りになった、国際通りにある建物は、大手の薬屋チエーン、大手の居酒屋チェーン、大手の土産屋チエーン、大手の泡盛屋チエーン、なんとかという紅芋のお菓子屋も、1マイルを端から端まで歩くと、そういう似たような店が立ち並び、ワクワクさせる要素が全く失われた街になった。これも地元の人が歩かない一因だろう。

 それに加えて、大きなホテルも通り沿いに出来だした。ますます歩きにくくなる通りになる。かつての国際通りの姿がどんどん遠のく

 昔通った、純喫茶エデンや、月光、1918年(通称センハチ)でゆっくり音楽聴きながらコーヒーを静かに飲めるような時代がまた来るのであろうか、それともますます都会化がすすむのであろうか

 

 これを書いたのが2019年の1月である。まだこの時は平和な様相の国際通りだが、あれから1年3ヶ月たった現在2020年4月のとある日曜日は、まるでゴーストタウンだ

鎌倉芳太郎のこと

 先日香川から一年ぶりに豊田夫婦が小桜にみえた。数年前小桜に初めてみえた後は毎年のように夫婦で来られる。今回は同じく毎年来られる千葉の磯山夫婦ともご一緒できた。

 豊田さんは100年以上続く材木商で今は息子さんに継いだあとはロータリークラブの活動をされている。今回もその大会が沖縄であるのでそれも兼ねての来沖になった。いつも香川の日本酒をお土産にいただく、今回もやっと手に入ったよ、と嬉しそうに持って来られたのが、香川の銘酒「悦凱陣」の興という純米吟醸

 初めて来られた時、香川には「悦凱陣」という美味しい酒がありますよね、と話したら来られる度持って来られるようになった。催促したつもりではなかったが結果そうなった。「悦凱陣」はその後入手困難な酒になった。だから嬉しそうな表情をして「やっと手に入ったよ」となったのである。今回初めて豊田さんが下戸であることを知った、そのぶん、店にいる皆でこの美味しい酒をいただいた。

 

 ところで、久しぶりにお会いして今回真っ先に話題になったのが去年の首里城の火災だった。その中で僕が一番の関心事の「鎌倉芳太郎」という人物の話がでた。鎌倉は香川の出身だった。首里城再建にはこの鎌倉の存在が大きくひかる、が知っている人は少ない。大正時代の首里城解体をこの鎌倉と伊東忠太という二人が取り壊し寸前でとどめた。この二人の調査検分無くしては1992年の首里城復元はなされなかった。以前より豊田さんはこのことに関心を持たれ首里城再建と共にこの「鎌倉芳太郎」をクローズアップさせようとの運動をしているようである。

 この話は多いに盛り上がりを見せた。僕がこんなにも鎌倉のことを知っていることにまず驚いていた。タイミングよく先日読んだ「首里城への坂道」のことも伝え、さらに鎌倉が調査のため捜し集めた紅型の型にまで及び、鎌倉が縁のある知念紅型研究所で私の娘が成人式の振袖をこしらえたことも伝えた。

 この「鎌倉芳太郎」を顕彰する碑を建てようと尽力されているようである。鎌倉の資料が多く残る県芸(沖縄県立芸大)にもその旨を話されたようだ、僕も賛同します、一緒にやりましょうと話は弾んだ。

 

 鎌倉にしてもそうだが香川県には逸材が多い、エレキテルの平賀源内や塩田を作った久米通賢等、今回そういう話も事前に準備してたが、鎌倉の話が大半でできなかった。しかし自分の関心事が、それを最も身近に感じている人と話すことは実に楽しいものだと感じた。また関心を持っていると自然にそういう人が現れる、ということもある。

 

 だから常に色々な方面に問題意識を持つことは大事なことだとあらためて感じた。先日燃えた後の首里城を見てきた。今、首里城再建の話が異常に早い速度で盛り上がりを見せている。が個人的な意見ではそうそう早く再建しなくてもいいと思っている。再建する前に沖縄県民にとって首里城とはなんなのかということを今一度考えるきっかけを、今回の事件が与えたのではと思っている。琉球王国の時代から常に日本の国に翻弄され続けられている沖縄。首里城もそうなのだ、ということを県民が知る必要がある。それを教えたのが沖縄の人ではなく、県外の「鎌倉芳太郎」と「伊東忠太」なのである。まず、この辺りをを知った上で首里城のある意義を考え、ウチナンチュのアイデンティティーを問うべきなのでは、と考える。

 首里城を経済の拠点より沖縄文化の拠点としての復興を望む